手芸自体は十代の頃から好きであれこれやってきたが、ここ数年編みものを集中的に選んでいるのには理由がある。それは息子への印象操作だ。 息子は現在大学3年生で、今の彼の頭の中はたぶんバイト関係が7割、大学の授業が1割、中高時代の友人関係が2割弱、で残りのわずか数パーセントが私を含めた幼い頃の記憶だろう。
幼い頃に何をやって、といったところで親の都合の良い記憶を持ち続けるわけがない。私自身の親との関係を思えば然り。それなら上書きされるよう今の私をすり込んでやろうじゃないか、というわけだ。ふふふ、我ながら姑息だとは思うぞ。いひひ
残機99!とコントローラーを握りしめ弾幕をすり抜ける姿とか、キーボードを鬼のように打ち続ける姿とか、競馬新聞を睨んで生返事をする姿とか、腕組みして将棋盤を凝視している姿とか、そんなものが母の記憶であるのはちょっと寂しい。だって息子は私が丹誠込めて仕上げたクレマチスやベランダに目線をくれないし、掃除の行き届いた室内や清潔な環境に関心がないのである。
そこで編みものである。夜、帰宅すると母はいつも編みものをしている。
うっはっは もちろんマフラーや帽子、膝掛け、靴下は母の手編みである。
あ、ちなみにウェアは編まない。 これは信念があって編まない。
いつの日か、息子が思い出す母の姿は、「編みものをする母親」
であることを希望する。息子には父の記憶も兄妹の記憶もないのだ。この先、人生のパートナーを見つけたら、その後はその人との記憶が一番濃くなっていくのだろうことを願う。 そしてふと思い出す母親の記憶、それは「編みものをする母親」なのだ。
完璧だ。むふふふふふふ
クレマチス モンタナ系 香雪(コウセツ)
本日の耳の友 心を揺さぶるクラリネット クラリネット 豊永美恵